はじめまして(1)
2022.11.29
日々のこと/志波大輔
こんにちは。
MERRY BEETLE(メリービートル)代表の志波 大輔(シバ ダイスケ)です。会社名も名前もフリガナが必要と、読みづらくてごめんなさい。「芸名ですか?」とたまに聞かれるんですが、本名です。
僕たちはデザイン、ブランディングというフィールドで仕事をさせてもらっています。この仕事を端的に表現するとしたら、「言葉や図・写真・イラストなどを用いて、企業や店舗・商品・サービスのメッセージを正しく伝えていくこと」だと考えています。それなら、私たちも伝えたいことを発信しよう!、とブログを立ち上げました。
ここではデザイン・ブランディングの背景や過程、またはそれにまつわるお話と、僕たちの思想や趣味嗜好、雑多な日常のあれこれをお伝えしようと思います。ちょっとした隙間時間にご覧いただけたら嬉しいです。
初投稿は、僕の自己紹介にお付き合いください。
3回にわけてお送りします。
それでははじまりはじまり・・・
[ウルトラマンと虫取り少年時代]
富山県出身の父、和歌山県出身の母が出会い、志波家の第一子として1986年2月25日に生まれ、25歳くらいまで大阪の八尾で過ごしました。3兄妹の長男で、妹が2人います。長女は僕と一緒に遊んだり喧嘩をすることが多かったせいか、とても逞しく、次女はまさに末っ子キャラでおっとりした性格。全員O型で自由奔放な家族に囲まれて育ちました。ちなみに志波家の初孫で唯一の男の子ということもあり、とても可愛がってもらったと思います。性格は恥ずかしがり屋で人見知り、泣き虫、そんな幼少期で、幼稚園に一番仲の良い友達が来ていないと泣いてしまうくらいでした。
その頃、外に遊びに出かける時の相棒はウルトラマンの塩ビ人形でした。当然タイムリーにウルトラマンを見ていたわけではなくて、おじさんがビデオや人形をプレゼントしてくれたおかげでした。ちなみに一番好きだったのはウルトラマンA(エース)。だけど何でA(エース)だったんだろうか?今度探究してみます。他にも戦隊モノや勇者シリーズ、仮面ライダー、とヒーロー系に憧れていました。あと当時夕方にやってたファイバードやマイトガインなどの勇者シリーズも。今でもアイアンマンなどのマーベルシリーズや、最新の仮面ライダーや戦隊ものはチェックします。
昆虫を捕まえるのが好きで、よく友達と虫網もって遊びに出かけましたが、まさか自分の会社の屋号にまでなるとは思いもしませんでした。ちなみに地元で捕まえられる一番かっこいい虫はカマキリでした。秋になると田んぼへ出かけて大量に捕まえるんです。小さくて茶色いコカマキリ、王道のオオカマキリ、どしっとしたハラビロカマキリ、このあたりがよく捕まえていた種類です。
もっとカマキリloverだったら、MERRY MANTIS(メリーマンティス)になってたかもしれません。ちなみに屋号にもあるカブトムシやクワガタは図鑑で見るだけで、捕まえられる環境ではありませんでした。そんな屋号の由来はまた別の機会に。
この写真はある日道端で見つけたカマキリです。
グワっと来たからピントが合ってないのか、僕が撮影下手くそなのかはわかりません。
[建築家を目指して]
学校の授業では図工や美術が大好きでした。中学時代、「劇的ビフォーアフター」という建築家が活躍するテレビ番組が流行っており、「建築家を目指したらどう?」と母から言われた一言が人生を大きく決定づけました。どちらかと言うと、絵を描いたりするような平面的なものよりも、立体物をつくるほうが得意だったので、自分にピッタリだなぁと建築家という目標を定めたことを記憶しています。
余談ですが、部活も本当は工作部、美術部みたいなのに入りたかったのですが、周りのみんなに影響されて野球部に入部しました。小学生のときは三振王の悪名をつけられるほどド下手で、よく友達からバカにされていました。ですが一生懸命練習して、高校ではキャプテンを任せてもらうまでに成長することができました。
とある大会のワンシーン、真ん中が僕。キャプテンでポジションはサード。
キャプテンシーが無いと指導されましたが、今ならその意味がよくわかります、監督ありがとう。
地元の八尾高校を卒業後、神戸大学工学部建設学科に奇跡的に現役で入学。
この受験も僕にとっては人生で一番努力した時期で、高校三年生の夏に部活を引退してから毎日勉強に明け暮れました。
手前味噌ですが校内での学力はトップクラス、ですが全国の猛者と戦うには高い壁がありました。とにかく短期間で詰め込むしかないので、眠くなったら目にサロンパスを貼るという無茶苦茶な日々を過ごしましたが、最後までずーっと模試の結果はE判定(一番下の判定)。でも絶対合格できる!と謎の自信があり、センター試験の当日の結果は今までで最高のC判定で、2次試験次第で合格を掴めるところまで来ました。
そして挑んだ前期試験は惨敗。通常後期試験ではレベルを落として受験することが定石ですが、滑り止めの私立に合格していたこともあり、後期も神戸大学へチャレンジしました。やはり京大や阪大から流れてくる受験生も多かったのですが、なんとこの後期試験に合格できたんです。
当時は建設学科に建築コースと土木コースがあり、やはり人気は建築コース。建築コースを志望していても成績次第では土木コースへ回される可能性もあったのですが、見事建築コースで合格できました。「やったぁ!」と大声を出して喜んだのは、後にも先にもこの時だけです。
この野球部と大学受験で培った「努力」と「ど根性」が、僕の精神的な基礎を間違いなく鍛え上げてくれました。特にドロドロになりながらもボールに飛びつく守備練習が大好きでしたが、間違いなく今も似たような感情で仕事に取り組んでいます。
しかし、華々しく建築家への第一歩を踏み出せたと思ったのも束の間。一流の建築家になれるのは一握りという現実の厳しさに直面し、その狭き門に挑戦することに怯え、先が見えない未来に憂える日々を過ごしていました。そんな悩める日々を過ごす大学4年生の時、僕に活路を見出してくれたのがデザインの世界でした。
はじめまして(2)へ続きます。
大学時代、泣きながら進めた卒業制作を、闇の思い出から引っ張ってきました。
有機的な建築を造られる伊東豊雄さんの影響が大きかったです。(足元にも及びませんが、、、)